パパさまより
2016 / 08 / 27 ( Sat ) 21:05:06





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ハイヒールのかかと
2016 / 08 / 26 ( Fri ) 17:30:18
この世の幸せに
どっぷりつかっているときは
神様を必要としない、のが
ふつう・・・。


神を求め、
神に出会わせていただけるのは
苦しんでいるとき。


だから、苦しいときは
恵みのとき。


たとえ、その最中はわからなくても、
後になって、それが大きな恵みであった
ことがわかる、と
自分のことに関しては、
そう言える。


・・・でも、


苦しんでいる他者に、
『それは恵みよ!』
ということは、
『倒れている人を(だっけかな?)、
さらに、
ハイヒールのかかとで
踏みつけるようなもの。』


8月21日、日曜日のミサ説教で
豊島神父様がおっしゃって・・・、


かかとの高いハイヒールなんて、
もう、決して
履くことはないだろうけど


気をつけなければいけないな、
と思ったことでした。




Luna
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祈りの導きに
2016 / 08 / 25 ( Thu ) 22:31:18
『祈りのはこぶね』(ドン・ボスコ社)
イエズス会の英神父による
この本は
この夏の、
祈りの導きと
なりました。


『カトリック生活』の連載を
まとめたうすい本なので
持ち運びしやすく、
短く簡潔で
わかりやすいので
電車の中で
何度も読み返しています。


かなり厳しいことを
グサグサと
指摘されますが、
とても具体的で
実践的で
祈れるようになる
ヒントが満載です!


そして、やっぱり
あったか~い福音に
満ちているので、
日々の祈りのなかで
希望を
感じさせてもらえます。


読むと
なんだか明るくなれる
不思議な本です。





希望の無いところにも
希望を持って
生きることができるのが
キリスト者。
私たちの、望みは
決して失望に終わらない!


『神が
私を愛してくれているので、
希望は
決してむなしくならない。』
(ロマ書5章5節)


『どうか、御父が、
その豊かな栄光に従い、
その霊により、力をもって
あなたがたの内なる人を強めて、
信仰によって
あなたがたの心のうちに
キリストを住まわせ
あなたがたを
愛に根ざし
愛にしっかりと立つ者と
してくださるように。』
(エフェソ3:16-17)





神に感謝!
Elizabeth♪

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心の平和と自由をはぐくむ
2016 / 08 / 24 ( Wed ) 11:00:36
石神井のイエズス会黙想の家の
ヴィパッサナー瞑想による
黙想会から…





まず、自分が
呼吸するときの
心に自由と平和をはぐくまないと、
他の人を
受け止められない。
自分の存在
そのものによって支える。
“私と出会ったから、もう大丈夫”
と、言えるように。


鼻の入口の感覚、
腹の感覚一つ一つに気づく。
右手、右足、と、
一つ一つの体の感覚に気づく。
手の動きに集中したとき、
いろいろな思い、考えが
晴れあがり、
心の中が澄みわたるような
感覚に出会いました。


怒りも寂しさも悲しみも、
大空の雲のようなもの。
その雲の中に入り込んで、
巻き込まれるのでなく、
その雲からぬけだして、
ただ気づく。
その雲を見つめていると、
それらは、やがて過ぎ去っていく。


「生きる」とは、「ここ」が対象。
「生きる」とは、
誰かと、出会っていくこと。
何かと、出会うこと。
身体の五感を通して
出会うこと。


それまで誰かと話をしていたのに、
急に、
”自分は誰からも相手にされない“
と、考えた瞬間、
心と体がキューっと締め付けられて
その考えに
『自分』が、つかまってしまうのは。
無意識のうちに、
現実を、
色眼鏡のフィルターで見てしまうから。


そんな心をときほぐし、
心を、
より深い自由にもどしていく。
今、ここにある
からだの感覚に
意識を戻していくことで。


椅子に足をぶつけて
『痛い!』と言ったとき、
その痛みの感覚に飲み込まれて、
痛みと自分が
心理的にひとつになって、
パニックになることがある。


『痛い』というのはどういうことか
気づく修行をしていると
痛みにも巻き込まれない。







今、ここに、意識を戻すのは、
現実に、目覚め続けること。
現実の中に働く“神”に出会うこと。
 深く、静かに、『生きる』を味わい、
キリストが示された
神の無償の愛(アガペー)に
近づけるように
少しずつ黙想の修行を
積んでいます




神に感謝!
Elizabeth♪

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“死者は確かに存在する”
2016 / 08 / 23 ( Tue ) 23:25:29
2016年6月18日(土)
聖心女子大学の
東日本大震災のチャリティー講演会で
若松英輔さんによる『悲しみの神学』
日本の近代キリスト教感情史
と題したお話を聴いてきました。





内村鑑三、岩下壮一、吉満義彦
遠藤周作などについて
語られました。


内村鑑三は、
『自分は、
亡き愛する人々に支えられて
生きている』と、講演録でも
はっきり語っていた。


「カトリックにとって、
死者は、とても大事な同伴者。
それなのに、カトリックは
臨在する死者を
語ることが少なくなった、


なぜ、東日本大震災の
何万もの遺族に対して
『死者は確かに存在する』と、
カトリックは語らなかったのか?
『祈っています』では、
足りない。
部屋で祈っていればいい
という時代は、終わった。
もっと、新渡戸稲造や内村鑑三の
声を聴かなければいけない。」
と、若松さんは訴えられました。


内村鑑三は、
妻、娘、師匠が
帰天していくなかで
自分を支える力が
大きくなることを
自覚していった。


「人間は、
確かなことを言おうとして
口をつぐむ。
愚かだと思われたくないから。
けれど、
黙っていることが、
最も愚か。」


「語りえるものは、不確かなもの。
語られる言葉を聴きながら
語られざるものが
呼び起こされる。」


「吉満義彦は
『天使』を相当考えた人。
“死者”とは天使的存在。
天使は、
われわれの間にある。
人間に
すべてが目に見えると思うのは過ち。


天使の存在なくしては
マリアに
神の言葉を伝えられない。


“祈り”とは
神の言葉を聴くこと。
その時、
神が遣わすのは“天使”。


“天使”と言う言葉が
こんなに軽んじられた時代はない。」





“十字架復活”を信じるキリスト者
として
復活について
語る使命を思わされました。





神に感謝!
Elizabeth♪
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“私の十字架”を担う
2016 / 08 / 23 ( Tue ) 09:16:59
2016年8月20日(土)御ミサでの
豊島治神父のお話から





「今日の福音にある
『狭い戸口』とは
どれくらいのものなのか?
といえば、
“私の身体で入っていける狭さかしら?”
ということではなくて、
“イエスのみ言葉を聴く”
かどうか、ということ。


“救いとは、どういうことか?”
といえば、
”イエスの言葉を受け入れたか?“
ということです。


“イエスの言葉を受け入れること”

“まことのいのちに入る門”
であり
“まことのいのちに行く道”
です。」


「今日、洗礼を受けたいという方に
お会いしましたが、
“いい人になりたい”
というのが
その動機でした。

私たちには、もう
分かっているはずです。
私たちは、すでに
神様から
“いい存在”と、認められています。
だから
これ以上、人から
“いい人”という付加価値を
付けてもらう必要は
ない。」


「今日の福音書は
イエス様が
ガリラヤから
エルサレムへむかう途中です。
それは、イエス様が
これから十字架にかかるぞ
という、意志の表れです。


8月に入ってからずっと、
十字架の話をしていますが
イエス様が
ずっと言っておられるのは
“あなたの十字架を、担いなさい”
ということ。


“これは、
あなたの十字架だ“
と、他の人が言うのは、違うんです。


“これは、私の十字架だ”
と、自分で発見し
担おうとしたときに
神様は
それを担う力を注いで下さいます。
導き、手を貸し、
救って下さいます。」


「十字架っていうのは
自分が
その十字架に向き合い
それを担うことを決意して
生きていく
その一歩一歩の足の踏み方に
神様は
応援し、力を与え、導く
ということなんです。


私たちが日常でかかえている
苦しみや悲しみやジレンマを
かついだきに
神様は、きちんと
導いて下さる。

その導きに
私たちが
素直に歩むこと。」



「私たちは
生きるために、十字架を担います。
“十字架を担う者同士
助け合わなきゃいけない!”
という
ルカのメッセージに
原点回帰して、
私たちが、そのつとめを
果たすことができるように
今日も
ご聖体を
頂きたいと思います。」





『狭い戸口』から入れるように
いつも、主の言葉に耳を澄ませて
いられますように…。





神に感謝!
Elizabeth♪
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心に染みる
2016 / 08 / 22 ( Mon ) 20:40:09
a-染みる



乞田川は蕩々と流れ
道には空の色が滲む



この街は、
なんという美しさに満ち溢れているのだろう!




神秘的に漂う雲の群れや
合間に架かる鮮やかな虹



鳥のさえずり 
虫の声
風の曲線
木漏れ日の揺らめき



色が溢れる
その美しさ
心に染みる
心に染みる



神に感謝




かなぶん
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マリア様のとりなし
2016 / 08 / 22 ( Mon ) 12:13:29
2016年8月15日(月)
聖母被昇天ミサでの
豊島治神父のお話から






「聖母被昇天の祝日は
二つの世界大戦を終えて
ピオ12世が
全世界のカトリック教会に
投票をよびかけて
定められました。」


「“カトリック教会はマリア様を拝み
プロテスタント教会はイエス様を
拝むんですよね。“と
函館のタクシーの運転手さんに
言われた時、
一緒にいた札幌の青年が
“カトリックでは
お父さんに
何かを頼むときに
お母さんにとりなしを頼むように
マリア様に、神様への
取次ぎをお願いするんですよ“
と、説明していました。」


「マリア様の
あたたかさ、優しさ、
悲しいときになぐさめてくださる
という意識が
どこからくるかといえば、
マリア様は
イエス様を、
ずっと、見守っていたから。


マリア様は
イエス様が生れた時から
どんなことがあっても
逃げなかった。
どんな悲惨な時にも
神様に希望を置き
たたずんでいました。」


「すべてのミサは
主にむかっています。
イエス・キリストの復活を願い
神様からの恵みに感謝して
イエス・キリストの信仰によって
与えられている
希望を新たにするために
ミサを捧げます。


けれど、私たちは
イエスさまの苦しみを思い、
それを間近に見て、
それに心を砕き、
生涯を弟子たちに示された
マリア様の強さのゆえに
マリア様にすがり
マリア様に
とりなしを願うのです。


今、マリア様にむかって
祈るということ。
それは
マリア様を通して
天の父に祈ることです。


平和を求め、
普通の生活を
求めている人たちの
力となってくださいと
祈りたいと思います。」





小金井教会初代司祭の
ムーニー神父様は、瞬間湯沸器と
呼ばれるくらい
すぐ怒る、強そうな方だったのに
お母様が亡くなられたとき
マリア様の御像の前で
小さくなってお祈りされていた
というお話が印象的でした。
マリア様は、”信徒の模範“。
たたずみ、思いめぐらす姿に
あこがれます。




神に感謝!
Elizabeth♪

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どんなときも、神は救って下さる
2016 / 08 / 22 ( Mon ) 00:21:56
2016年8月14日(日)
聖マキシミリアノ・コルベ神父記念ミサでの
豊島神父のお話から②





「コルベ神父が
アウシュビッツで
身代わりとなったこと
"流されなかったこと“は、
当時、とても
センセーショナルなことでした。


今日の福音書の
ルカによる福音12章53節も
ショッキングなことが
書かれています。


『父は子と、子は父と…
対立して分かれる。』
“やっぱり、
ウチがおかしくなっているのは
ここにある通りね…“などと、
よく誤解されますが
これは
ミカ書7章6節に
出てくる言葉で
この後には
『しかし、わたしは
主を仰ぎ
わが救いの神を待つ。
わが神は、
わたしの願いを聞かれる。』
と、続きます。


『たとえ倒れても、
わたしは起きあがる。
たとえ闇の中に座っていても
主こそわが光。』(ミカ書7:8)


神はどんな境遇にあっても
私たちに
光を与え、導き、育て、
素晴らしい場所に
導いて下さいます。


イエス自身、
エルサレムにのぼって
十字架にかかる境遇と
わかっていたなかで
“やはり、神は救って下さる。”
と、前に進まれたように、
私たちは
どんなときも
“それでも、神は救ってくださる”
だから、
天命が来るまでは
乗り越えて、
前に進んでいかなければならない。



苦しいときにも
“神様!”
と、叫ぶことができる
有難さを
かみしめながら
ご聖体を
いただきたいと思います。」





いつも
“神はかならず救って下さる”
”よいことを与えて下さる“
と、信頼して祈ることを
忘れませんように。



神に感謝!
Elizabeth♪
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流されないこと
2016 / 08 / 21 ( Sun ) 22:30:26
2016年8月14日(日)
聖マキシミリアノ・コルベ神父記念ミサでの
豊島神父のお話から①






「多摩教会の保護の聖人は
マキシミリアノ・マリア・コルベ神父です。


私たちは、みな、霊名に
聖人の名を
いただいています。


その聖人は、私たちを
守ってくれている。
そして、
私たちが、信仰者として
迷った時、
進む道が分らなくなった時、
自分を守ってくれる聖人は
どのような
生き方をしたのか
そういう風にとらえていくならば、
私たちが
聖人の名を戴いていることは
私たちの
力と恵みに
なっていくと思います。」


「私の霊名はパウロです。
生まれて3か月で
洗礼を受けておりますので、
自分で“パウロがいい”
と言ったわけではありません。


両親に
なぜパウロにしたのか?と
訊いた時に
“パウロは律法学者だったから
頭がよくなると思って。“
と言われて、
“自分で選べばよかった…。”
と、
ずっと、思っていました。


でも、
大人になって、神学生になって
自分がクリスチャンであること
自分が生きていくこと
に対しての
逆風に会った時に、
パウロの生涯で
パウロが
ぼろぼろになった時に
“さあ、立て!”
という神様の声に
もう一回奮発する
という書簡の記述を読んで、
やっぱり
パウロでよかった!
と思いました。


それでも
やっぱり
霊名を自分でつけたかった
と思ったのは、
中学1年のころ。
日曜学校で一緒にいた友人が
聖人伝をたくさん読んでいて
霊名どれがいいかな?
と、相談されたりしました。
その頃のブームが
マクシミリアノ・マリア・コルベ神父でした。
ヨハネ・パウロ2世が
教皇になった年です。
アウシュビッツで
身代わりとなって
人のいのちを助けたことにも
共感しましたが、
“流されなかったこと”
しょうがない…と、
流されるのではなくて、
きちんと、
自分のやるべきことがあることを
示したことに
共感しました。」



***つづく***





神に感謝!
Elizabeth♪
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