右の頬をたたかれたら…
2015 / 11 / 28 ( Sat ) 22:09:32
2015年11月20日(金)
入門講座での晴佐久神父のお話から③








「今度の主日は
『王であるキリスト』
カトリックの典礼での年末です。
イエス・キリストが、私たちの王。
本当の導き手です。

キリストは、完全非暴力。

イエス・キリストは
“剣をとるものは、剣で滅びる”と弟子たちに言い、
不法な裁判から24時間経たないうちに
十字架にかけられた。

“敵を愛せ”と言った通り、
自らを十字架にかける人にも
『神様、彼らをお許しください。
彼らは自分が何をしているのか知らないのです。』
と、神にゆるしを祈って死んでいった。」



「『あの人はいなけりゃいいのに』と願うことは
テロと地続きです。
我々は
みな、悪、罪を抱えている。

イエスは
そんな罪を背負って十字架にかかった。
イエスは
そんな私たちをゆるした。

ゆるされた、と思う安心感を持った人は
人をゆるすことができるようになる。」



「人が、どれほどの罪をゆるされているか。
ゆるしを本当に味わっていない者は
愛することも少ない。

まずは、神のゆるしを体験して。
“私はゆるされているんだ”
という喜びを確信して、人をゆるしましょう。」



「旧約時代は
“目には目を。歯には歯を”という同害復讐法だった。
そんななかで、
イエスは、
“右の頬をたたかれたら、左の頬を出せ”と言った。

右の頬をたたかれたら、
右の頬をたたき返せ、ではなく、
復讐しないでもなく、
第3の道を選べと言った。

それは、どういう道なのか?
考えなければいけない。
“上着をとられたら、下着をも与えよ”とは
どういうことなのか?

それは、
テロを起こされたら、
テロを起こした国を幸せにしなければいけない。
ということ。
世界中の富を集めている国が
難民全員を幸せにするだけの富を持っている。」







“右の頬をたたかれたら、左の頬を差し出す”
生き方ができますように。

傷つけられても、
仕返しするのでなく、無視するのでなく、
へりくだって、相手をゆるし、愛する生き方を
選ぶ力を、どうぞお与えくださいと、祈るばかりです。




神に感謝!

Elizabeth♪
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分かち合う暮らしにあこがれましょう
2015 / 11 / 26 ( Thu ) 21:00:00
2015年11月20日(金)
入門講座での晴佐久神父様のお話から②






「テロの源泉は、“不均衡”にある。
ちゃんと皆が分け合っていれば、
起こるはずのないこと。
日本も、難民キャンプから見れば
夢のような暮らし。
たまたま恵まれている私たち。
爆弾が落ちてこない街で
こうして美味しいお茶を飲んでいる。


身の回りでは、不均衡をなくしていきましょう。
モデルは、縄文人。
世界に例をみないそうですよ。
縄文人は、狩猟採集で集落をつくり、
縄文時代は、1万年以上もの間、続いていた。


次は、絶対、縄文時代に生まれる!
美しい原生林。美味しい水。
1万年以上も小さい集落を作って、
栗林を育てて幸せそう。
分かち合っていました。


縄文人は
他を犠牲にして自分が幸せになることを、
注意深く避けていた。
稲作が入ろうとした時も、しばらく拒否した。
栗林を切ると、
持続可能な暮らしではなくなるから。」



「分かち合う暮らしにあこがれましょうよ。
人と人の間に、
ちゃんとした気持ちの流れがないと。
人は、自分の脳みそのなかだけでは
満足できないようになっている。


自分が少しお腹をすかせていても、
皆で働いて、皆で美味しいねと分かち合う。


教会というところが
何をしているのかというと
縄文の感覚を取り戻そうとしている。
イエスの時代もそうだった。


この入門講座では
個人の救いではなく、
みなの救いを考えましょう。
人を助けることが、自分の喜びになる。
そして自分も助けられる。」



「“Compassion”“共感”
やさしさ、いたわり、察しあい、
日本人には空気を読む、
人間が本来持っている共感能力がある。
同調圧力もありますが…。


教会で、傷つけたり傷つけられたりしながらも、
共感するつながりを、
教会は、つくることができる。


イエス・キリストに従っていれば、必ずできる。
そういうモデルがある。


まずは、目の前の人と一緒にご飯を食べましょう。」





カトリック多摩教会では、2000年の聖堂献堂以来
毎週日曜日のミサの後には、
各地区手作りの美味しいお昼ごはんを
300円という格安で提供しています。

初めて教会に来られた方には、無料券もプレゼント。
日曜のミサの前に、エントランスの案内係に
「初めてです」とお申し出くださいね。
お待ちしています



神に感謝!

Elizabeth♪

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“証し”する人で成り立つ
2015 / 11 / 25 ( Wed ) 11:25:53
2015年11月20日(金)
入門講座での晴佐久神父のお話から①






「人が伝えることで
伝わっていくのがキリスト教。
“自分が体験したことが、神から来たものだ!“
と証言するのがキリスト教。


人に伝える人っていうのは、
自分も救われたっていう喜びの体験を伝える。
それが、神からのものだっていう実感を
その信仰を伝えている。
それは、伝わることによって証しされる。


神からの恵み、喜びとして、
救われた人の証言は、大事。
多摩教会も
ちゃんと証言する人達で成り立っています。


“自分も救われた”と証言することで、
“人”に伝えることによって、“証し”ができる。
“もう一人の誰か”に出会って、
ある人を通して神から受けたものを
次の人に伝える瞬間に
本当に、その人が生まれる。
本当の人間関係が生まれる。
“語る相手”がいなければ、“証し”はできない。」



「助け合いましょう。
受け入れあいましょう。
優しくしあいましょう。
そういう真ん中に、
イエス・キリストがいてくれます。


それを、現実に表す。
目に見える“しるし”となる。
多摩教会が、真に“秘跡”となってほしい。


私たちは、イエス・キリストというパパのもとにいる民。
イエス・キリストという
共通のいのちの糧を食べて、一致している私たち。
“一体感”を持っている仲間であってほしい。
多摩教会は、
かなり神の国に近い。」


「“救われた”という喜びを持って、この教会に集まり、
この喜びは、神から来たものだと、
かたく信じている人は、強い。
いい働きをする。
キリストは生きているという証しです。」


「入門講座に来ている人達は、教会の中心部。
イエス様が、一人ひとりを集めてきて、
救おうとしている。
教会の心臓部です。」



「キリストの愛を知って、一体化していく。
ひとつになる。


パウロは、
“生きているのは、もはや私はありません。
キリストが私のうちに生きておられるのです“
と言った。(ガラテヤ2:20)
自由意思を持ちながら、神の御心を行った。


キリスト以降、
神の国の完成は始まっている。
神様に近いところまで
人類を進化させている。
イエスは“私は道”と言われた。
信じて、その道を一歩一歩歩いていけば、
やがては、たどり着きます。」





この日は、奄美群島の徳之島からのお客様も含め
24人でお話を伺いました。



神に感謝!

Elizabeth♪
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パパ様のツイート
2015 / 11 / 24 ( Tue ) 12:17:03



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天国は、ほんとうにある
2015 / 11 / 23 ( Mon ) 11:54:13
2015年11月6日(金)入門講座では
『天国は、ほんとうにある』
“Heaven, is for Real”
という昨年公開の映画のDVDを観ました。


毎月第1金曜日は
入門係の持ち寄りのお惣菜が盛りだくさん
みそおでんやグラタン、うりの浅漬け、ゆずだいこん
りんごケーキにフルーツなどなど…。





この映画は、アメリカ ネブラスカ州の
実在する牧師親子のお話で
4歳の息子が天国に出会うシーンは
とても美しく、
目に見えるこの世界と表裏一体の
目に見えない世界に、おもいを馳せました。


日頃、晴佐久神父の福音を通して、ごミサを通して
天国を垣間見ているので
“天国は本当にある”という息子からのメッセージを
信じられず、戸惑う牧師の姿と、
メッセージに反発する教会員たちの姿は
“え?クリスチャンなのに、牧師なのに?”と、
意外でした。


でも、映画の最後では、
“天国は本当にある”という福音を
牧師も教会員たちも受け入れて、
“イエス様は復活され、
私たちも復活する。もはや死はない!“と
証しがされていました。
この教会は、
今も元気に福音が伝えられているそうです。





世界各地での“生けるキリスト”の働きを
感じさせていただきました。

秋の輝く夕焼けや
紅葉のグラデーションにいろどられた並木道。

驚くほど美しいこの世界に、
日々はっとさせられ、
目には見えない慈しみを感じられるのも
日々語られる福音とミサのおかげです。



神に感謝!

Elizabeth♪
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私たちも、泉になる
2015 / 11 / 21 ( Sat ) 19:08:32
2015年11月13日(金)入門講座での
晴佐久神父のお話から⑤






「入門講座は、何の“門”に入るかと言えば、
“救いの門”。
救いの門に入っていただければ、十分です。
第1は、洗礼を受けることではありません。
神の愛に気づくこと。
目覚めること。
神の愛を知り喜びを知ってもらうのが、
第1の目的です。

洗礼は、神様との結婚。
一番大事なのは、式ではなく、“愛”です。
ふたりで“愛”をクリエイトして
いっそう成長していく。
皆の前でそれを表明し、
大いなる“愛”を表すために、式があります。」




「『渇いている人はだれでも、
わたしのところにきて飲みなさい。
わたしを信じる者は、
その人の内から生きた水が川となって
流れ出るようになる』
(ヨハネ7:37-38)
と、いわれたように、
私たちも“泉”になるのです。」



「一旦死んで、生き返るのが“洗礼”。
あとは、全部神様にまかせる、ということ。
この私は、被造物。受けるもの。
神の恵みのうちに生きるしかない。
信じます。感謝します。と、言うしかない。

あのイエス様ですら、
天の父に従っているだけだ。
天の力に働かされるだけだと
100%言っていた。
苦しみもだえ、血の汗を流しながら、
心からの必死な祈りの最後には、
“しかし、私が願うことではなく、
御心に適うことが行われますように。“
(マルコ14:36)と、祈られた。
それを信じます。受け入れます。
と言われた。」



「我々もキリストとひとつになることで
神の働きが、私たちをつつむ。
神の働きが、わたしのなかから
生ける水となって溢れ出します。」



「預言者モーセも
“主の民すべてが預言者になればよいと
切望しているのだ”(民数記11-29)
と、言いました。」




「“秘跡”というのは、
神様がご自分をなんとしてもわからせたい
と思っているのが原点です。
太陽にたとえて言うなら、
“この光でみんなを照らしたい。この熱でみんなをあっためて、
そこに万年億年かけて、美しいものを生み出したい“
という思いがあるから、
50億年たったら、こんな地球がある。

神は、ご自分の愛を与えたい。
けれど、真っ暗な宇宙の中で、受け手がいないと
しょうがない。
それが、宇宙を作った理由。
神は、ご自分の愛を受け止めてほしい。
子どもを産む親の気持ちですね。
神は、わが子を求めたんです。
会いたい、喜ばせたい、自分を知ってほしい、
自分の愛を受け止めてほしい。
自分を愛してほしい。

神の思いに協力しているんですね。僕ら。
存在するだけで、協力している。
一輪の花だって、協力している。
それでも、地球上には、
どうしても、“人類”が必要だった。
こういう入門講座だって、そのためにある。

神は、どれほど、この私たちを愛して、
万全をつくしているか。」





この日も入門講座には、20人以上が集まり、
神父様が咳をされながらも熱く語られる福音に
耳を傾けました。



神に感謝!
Elizabeth♪
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我慢しない
2015 / 11 / 21 ( Sat ) 10:25:46
2015年11月13日(金)
入門講座での晴佐久神父のお話から④






「私の大好きな版画家の棟方志功。
ファンになったのは、高校生の頃かな。
「先生、元気の秘訣はなんですか?」
とインタビューされて
「うんこ我慢しないこと!」
それ聞いたときに、
こいつは本物だ!と思いました。


我慢ってなんだろう…?
哲学的な命題ですが。
我慢、忍耐…。
本当にすぐれた人は、
たぶん、我慢しないんですね。
“悪い我慢”をしない。
本当に素晴らしいもののために、
何かを我慢するのは、
とっても人間的なこと。当たり前のこと。
美味しいご飯のまえに、
おやつは食べないとか。
それは、“いい我慢”。
“悪い我慢”は、ダイエットとか、
食事の美味しさがあるにもかかわらず、
断食とか…。


もっと…、自分の心に
本当に正直であるっていうのは、
すごく大事なこと。
自分は、なにを求めているのか?
自分は、なにを必要としているのか?
あるいは、自分は何がつまっているのか?
それを自分で“知る”っているのは、
ものすごく大事なこと。
だけど、みんな“我慢”しちゃっていて、
それを知らない。
それを知った時に、何かが、流れ始める。


「うんこ我慢しない」というのは
シンボリックな、彼の言い方であって、
自分は、よいものを本当に流していきたい。
そこに、自分は、すべてを開放して、
自分を全部与え尽くしたい。
ということを表していると思います。」



「棟方志功は、
子どもの頃、転んだときに
目の前にあった一輪の花を見た瞬間、
そのあまりの美しさにうたれて、
自分は、この美しさをなんとか表現したい!
と思ったのが
美術に進むきっかけだった。
こうなると、“天啓”ですね。
天の啓示です。
自分が努力してどうこうではなくて、
向こうからくるものを、
“啓示”と言います。


ばったり躓いて、
その前に一輪の花があったとしても
普通の人は、何とも思わない。
棟方志功は、
それを、神の“啓示”として見る力があった。
一生を変えるような出会いをしている。
この時、神を見た。」



「この宇宙を作った方。地球を丸めた方。
そこに命をもたらした方。
植物を進化させ、
目の前の一輪の花を美しく作られた方。


“色”なんていうものがあるだけで、
奇跡じゃない?
この世の中。人間の目は、
十万色を見分けられるんですよ。
精妙に“色”を見分けることができる。
“美しさ”を感じとることができる。
“作品”を見て、
“作者”を知ることができる。


人間だけですよね。犬猫にはできない。
人間は、作者に思いをはせることができる。
啓示を受け止めることができる。
自分を表した神を、
受け止めることができる。」



「キリスト教は、啓示宗教です。
神は、ご自分を啓いて、ご自分を示す。
となると、我々は…、
それを受け止める力が、どれほど大事か。
それを知るチャンスが、どれほど貴重か
ってことになるでしょう。」


⑤につづく…



Elizabeth
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見えるものを通して、見えないものを知る
2015 / 11 / 21 ( Sat ) 00:17:14
2015年11月13日(金)での
晴佐久神父のお話から③





「今日の朝のミサでは、知恵の書13章を読みました。
『…彼らは目に見えるよいものを通して、
存在そのものである方を知ることができず、
作品を前にしても、作者を知るに至らなかった。
かえって 火や風や素早く動く空気、
星空や激しく流れる水、
天において光輝くものなどを、
宇宙の支配者、神々とみなした。
その美しさに魅せられて それらを神々と認めたなら、
それらを支配する主が 
どれほど優れているかを知るべきだった。』」



「美は確かにすばらしい。けれど、
宇宙の働きを知り、
それを見極めるほどの力があるなら、
“なぜそれらを支配する主を
もっと早く見いだせなかったのか“と、厳しい。
見えるものに魅せられて、
星々や滝を、“神”というくらいなら
それらをここまで美しく作られている
美の創始者を知るべきだった。
と、書かれています。


このような、真理。
イエスの言葉でいうなら、
“真理はあなたたちを自由にする”(ヨハネ8章32節)
見えるものを通して、
目に見えないものを知る。
お母さんの微笑みを通して、
天地の創造主の微笑みを知る。


すべてに流れる生命の力を通して、
目に見える四季折々の素晴らしい命の恵みを通して、
目に見えない神さまの、“いのちの流れ”を知る。
さすが人類、
それくらい、見極めてほしい。


ニュートリノが、一瞬、地球を貫通していく時
が水と反応してキラッと光る
そこまで見極める力を、
人類は持っているのだから、
この、ニュートリノの源をつかさどっている方が
どれほど素晴らしい方か。
そして、その素晴らしい方を
知ることができる人類というのが
どれほど尊い存在かを、
わかってくれ!ということです。」



「一枚の美しい葉っぱを見ても、
神さま見えますよ。
イエス様も言ってます。
『野の花をみよ』(マタイ6:28)
ガリラヤ湖畔には、
アネモネの原種やポピーが咲いています。
一輪の花を、
イエスは、“本当に見る”ことができる人なんです。
本当に、花に関心を持っていたら、
見ることができる。


ああ、神様なんて素晴らしいんだろうと、思って、
目の前の花を見ていますか?
明日しおれちゃう花をも、
神は、これほど美しく装わせている。
神様は、どれほどこの世界を
大切に思っているか、
この花をみればわかるでしょう。」


「最も美しく、最も完全に神の愛を表したのが、
イエス・キリスト。
最高の神のあらわれ。
イエス・キリストこそが、究極の秘跡。
究極の啓示。
花一輪で、ああ神様はすばらしい!
と思える人は、なかなかいないから、
イエス様が与えられた。
そして、イエス・キリストは、
今も、生きて働いています。」



「カトリック教会では、
目に見えない“神の愛”を、
目に見える“秘跡”として与えています。
“秘”とは目に見えない神様の愛、力、働き、いのち。
“跡”は、確かにあったしるし。
お母さんの愛は見えないけれど、
お母さんの作るお弁当は見える。
秘跡の恵みも、確かに、私たちを養ってくれる。
ご聖体も、秘跡も、
信仰がなければ意味がないけれど、
信じる者には、
“秘跡”は、
試練の時、特別な力を発揮します。」


④につづく…



Elizabeth
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超々高感度で。スーパーカミオカンデのように
2015 / 11 / 19 ( Thu ) 23:49:12
2015年11月13日(金)
入門講座での
晴佐久神父のお話から②






「ノーベル賞で話題のニュートリノを観測する
“スーパーカミオカンデ”は、超々々高感度。
月で懐中電灯を地球へむかって照らしたのを
観測できるくらい超高感度だそうです。
ニュートリノは、
何もかも通って行っちゃうんですよ。
地球も突き抜けていっちゃう。
この僕も。
こういうものが、
僕らのなかを通り抜けています。
科学的な話なんですよ、これ。
面白いよね。


だからもう、“気”の流れだとか
“聖霊”の働きとかは、
もっと神秘的で、もっと偉大で、
絶対に測れないけれど、
作用する“なにものか”が、
私たちを導いている…なんて、
あたりまえのこと。
たまたま目に見えたものだけで、
すべてを見たつもりになっているなんて…


目に見えないものの向こうに、
目に見えないものを感じる力。
“秘跡”って、そういうことなんですよ。
教会は、“秘跡”(サクラメント)を、ものすごく大事にする。
教会は、見えないものを扱っているわけです。
神の愛だとか、復活の栄光だとか、
永遠の命だとか。
本当にそうか?と
思いたくなる人も多いでしょう。
証拠をみせたり、確認したりせずとも
それが本当だったら、素晴らしいよね。
どんなにいいだろう…
と思うことが出発点です。


あこがれてほしい。
あなたが本当にあこがれるようなもの。
それが、本当にあるんだ。ということ。





“求めなさい。そうすれば、与えられる。
探しなさい。そうすれば、見つかる。
門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。”
(マタイ7章7節)
このイエスの言葉は、
“求める”ということが、どんなに素晴らしいことか
“探す”っていうのが、本当に尊いこと
“門をたたく”っていのは、絶対に必要なんだ
それがあったら、
もう勝ったも同然。と言っている。
求めたらそれでいい。
それで十分。


『ママ』と呼べば、『はいはい、もうすぐよ。』と、
親は応える。
子が何を求めているのか、親はわかっている。
イエスは、こうも言った。
“あなたがたの父は、願う前から、
あなたがたに必要なものをご存じなのだ。”
(マタイ6章8節)
神は、ご存じだから、与えるんですよ。
求める思いのなかに、
すでに神とのかかわりがある。
何か与えてくれる存在を求めている。
まず、求めるところに、何かが生れてくる。


ヨハネによる福音書でのイエスの第一声は、
弟子たちへ「何を求めているのか。」
弟子たちは、応えることができなかった。
でも、何かを求めていた。
求め始めた時に、気づき始める。
神は最初から与えている。
“あなたがたのだれが、
パンを欲しがる自分の子どもに、
石を与えるものがいるだろうか。
…まして、あなたがたの天の父は、…』
(マタイ7章9-11節)
この全面的な信頼。
僕らは、神に頼むとき、
“たぶん無理だと思いますけど、
一応言ってみます…”
みたいなこと、多いですね。
もっと、直(ちょく)に、スコーンとつながって、
求めてる!
っていう部分がないと、流れないですよね…。」





「神さまが、ご自分を表して下さっている
この世界で
その神を知って、信じて、愛するために、
私たちは、存在しているのです。
神から流れ来る、おおきな恵みに、
スーパーカミオカンデのように
敏感でありたいですね。」


                   ③につづく・・・


Elizabeth
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いのちは”流れ”
2015 / 11 / 19 ( Thu ) 00:14:12
2015年11月13日(金)
入門講座での晴佐久神父のお話から①






「“流れ”が悪いのが、
すべての悪の根源なんでしょうね。
この世なんて“流れ”ですもんね。
神から、すべてがあふれてきて
すべてを生かして
そして、神様にすべてが立ちのぼっていく。


パウロは、
“万物は、神から出て、神によって成り、神へ帰す”
と言いましたが、(ロマ書11章36節)
やっぱり、大いなる源からあふれてきて
人々を生かして
そして、“讃美”“感謝”“喜び”などとして、
また、神に立ちのぼっていく
そういう“流れ”が、すべてですね。
いのちは、“流れ”。





流してやれば、すべてはうまくいく。
ガイアシンフォニーの龍村監督とお話した時、
「お金はためておくと腐りますね」
と言ってました。
さすが達人。
この世は、人材にしても、情報にしても、
人間関係にしても、
流してやるのがいいですね。


どうしても、管理したり、
いいものは自分だけで使おうとしてしまうけれど、
みんなで一緒に使おうよ、とか
自分は十分楽しんだからどうぞ、と
流すようになったら、いいんじゃないですかね。
流してあげれば、劇的に、変わります。
若い人たちもチャレンジできたり、
教育もよくなったりするでしょうね。
遺産として最期に寄付するんじゃなくて、
今、現実に必要なものを、
少しずつ流してあげるといいですよ。





自分の思いも、ためこまずに、
どんどん流すっていうのも結構いいですね。
女性が長生きするのも、
絶対、おしゃべりだからだと思う。
言いたいこと、しゃべりまくってますでしょ。
神父も、説教で、
言いたい放題流してますけどね。


ため込まず、せき止めず、流す。
イザヤ書55章(10~11節)は
『雨も雪も、ひとたび天から降れば、
むなしく天に戻ることはない
それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ
種まく人には種を与え、食べる人には糧を与える。
そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も
むなしくは、わたしのものに戻らない。
それはわたしの望むことをなしとげ
わたしが与えた使命を必ず果たす。』
神様からあふれてきた恵みは
、むなしく天にもどっていかないよ。
すべてをうるおして、めばえさせて、
必ず実りをもたらす。


これは、入門講座の、ひとつの大切なイメージですね。
天から、大きな恵みが、こう、ふってくる。
一方的に、圧倒的に。
私たちがふさわしいものであるかないかは、関係なし。
無条件。
神から、一方的、圧倒的にあふれてきて
私たちを満たして
私たちを、根底から、生きるものとしてくれる。
そして、“感謝”“賛美”“喜び”として、
私が、天に立ちのぼっていく。


この“流れ”のイメージは、
非常に私は重要だと思います。
“聖霊の働き”とも言いますね。
よくいう”気”の流れは“聖霊”の流れの一部。
“聖なる霊”の働き。
ヘブライ語では“ルアッハ”。“風”
“神様の息吹き”という意味です。
イエスご自身も、“聖霊”の話をするとき
風にたとえられました。
“風は、どこからきてどこへ行くのか誰も知らない”
(ヨハネ伝3章8節)
ノーベル賞で話題のニュートリノみたいですね。
どこからきてどこへ行くのか、
だれも知らないなんて。」

②へつづく・・・


Elizabeth
「入門講座」で admin page top↑
どんどん流してやる
2015 / 11 / 17 ( Tue ) 23:01:31
11月13日(金曜日)の講座はこんなふうでした。





お金はシンボリックですね。
この世は情報にしても、
人間関係にしても、
流してやるってのはいいことですね。


どうしても貯めようとして、
自分のためだけに使おうとするけど、
これをこだわらずに、
どんどん流すようになったらいいんじゃないですかね。


超高齢化社会ですけど、
お金の7~8割は、高齢者が持ってるんでしょ?
それ、どんどん流してやれば、
いいんじゃないかな~と思うんだけど、
一応、自分のために貯めとくんですよね。


亡くなりました、
遺言で教会に寄付しました、とか、
教会では、けっこうあるんですよね。


そういう方もいるんですけどね、
私思うに、亡くなってからっていうと、
いつ亡くなるの?って話ですよね。


少しずつ、前倒しで、
分割して払えよって思いますね。
早く、今の現状に必要なことを流して、
いい感じになって、流した本人にも
いいものが回ってきますよって話ですよね。
どんどん流してやる、いいね。



気の流れとか、聖霊の働きなんてのは
目に見えないけど、
確かに我々を導いているのは
当たり前のことだと思うんだよね。


目に見えるものの向うに、
目に見えないものを感じる力。


サクラメント。
見えないものを扱ってるんだから、
よくよく考えてみて欲しいんだけど、
もしそれがホントにあるなら、どれだけいいかって
考えてほしいんですよ。


それがもしホントだったら、すばらしいよねってとこは
納得してほしいんですよね。


この私たちに、それがあったらどんなにいいかって
思わせてくれる
それがあったらどんなにいいかって
憧れてほしい、
あなたがホントにあったらいいと思ってるもの、
それがあるんだって話なんだよね。



求めなさい、そうすれば与えられる


このイエスの言葉はね、
求めるってことがどんなにすばらしいことかって
言ってるんですよ。


それがあったら、もう勝ったも同然なんですよ。
求めたら、もういいんです。


求めるってことの中に、
神との関係がもうあるんです。
求めるってことに何かが生まれてくる。


ヨハネ福音書の第一声。
「何を求めているのか。」


この二人は答えられなかった。
これ皆さんの状態かもしれないですね。


本当のこと、救いを、真理を、求めてる。
それを求め始めた時に
神様はこたえてくださる。


正確に言うと、神様はこたえ続けているのに、
求めない限り、目にも入らない。


求めてなければ
なんにも見えないし、感じもしない。


探したら、必ず見つかる。
門をたたけば、必ず開かれる。
そういう流れを作って行きましょう。


神様の、ご自分をあらわしてくださっているこの世界で
神を知って、信じて愛されるために、
我々は存在している。
それを感じ取るのはすごく大事なことです。



我慢、忍耐ってなんだろうな。
本当に優れた人はたぶん我慢しないんだよね。


良い我慢と悪い我慢があって、
悪い我慢をしない。


ボクに言わせれば、
本当にすばらしいものを手に入れるために
何かを我慢するのは大切なこと。


ホントにおいしいもの食べるために
ポテチを食事前に食べないってのは
良い我慢。

ダイエットのために
これを食べちゃいけないってのは
悪い我慢。


自分が何を求めてるのか。
何がつまってるのか。
そこを知るってのはすごく大事なこと。
それを知った時に、何かが流れ始める。





実際には棟方志功さんのお話に触れられたのですが、
ちょっとブログでアップしにくい言葉が混じっていたために
自主規制させていただきました。笑

刺激的でバラエティに富んだ、
笑いあり、涙ありの
自主規制まで入る入門講座。
聞いてみたい人は、多摩教会へ。



かかりん
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合同転会式
2015 / 11 / 11 ( Wed ) 23:37:24
11月8日の日曜日は
合同転会式があり、4名の方が
カトリックに転会されました。





この日は
かかりんの地区の軽食サービスの日で、
かかりんはごミサの先唱も
することになっていました。



朝からごったがえしていたのですが、
聖堂に入ると
そこには晴れ晴れとしたお顔のみなさんが。


今回は、金曜日の入門講座に
何年も前から通っていた
Sさんと、Fさんも転会されるので、
かかりんの感慨もひとしおです。


先唱をしたおかげで
ものすごく近くで
皆さんを見ることができました。


ミサの前からSさんは涙ぐんでらして、
前のほうの座席には
Sさんのお嬢さん二人が
カメラを手に、
それは嬉しそうな顔で座っていました。


ミサの途中、いよいよ転会式。
直前まで迷いに迷ったFさんの
晴れやかな笑顔と、
Sさんが涙をこぼされているのとを見て
かかりんも思わずもらい泣き。
共同祈願のお祈りの時、
ちょっと涙声だったのを
皆さんはお気付きだったでしょうか。


神父様は、
転会は洗礼ではないので
「おめでとう」ではなくて、
「ようこそ」だとおっしゃっていましたが、
かかりんの気分はやっぱり
「おめでとう」でした。


ずっと親しい友人の一人として
付き合ってきたけれど、
これで晴れて入籍して、
戸籍上も家族になったような。





ようこそ、ようこそ。
あなたがいてくれて、
ここに来てくれて、本当に、うれしい。
これから、たくさんのすばらしいことが
皆さんに、山ほどありますように。


共同祈願でもお祈りしましたが、
皆さんが神様の愛につつまれて、
生涯喜んで
生きていくことができますように。




かかりん
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墓参に行きました
2015 / 11 / 10 ( Tue ) 23:15:14
2015年11月7日(土)
『カトリック五日市霊園に墓参に行きました。』





朝9時45分にカトリック多摩教会前に
50人くらいが集合し、
貸し切りバスで約1時間半。
カトリック五日市霊園に着くと、まず、
霊園の入口に立つ
カトリックあきる野教会の聖堂で
晴佐久神父の司式で
ミサをささげさせていただきました。



ミサのあと、急な登り坂をのぼり
山の上、いちばん奥にある
カトリック多摩教会の墓地に墓参しました。
自家用車でピストン輸送もするほどの急坂です。
南にひらけた斜面は、段々畑のようで
十字架やみことばが刻まれた墓石や、
マリア様の御像がみられました。


この日は、雨の予報でしたが
ボナベントゥラ・チマッティ氏の
納骨式がはじまると、
司式をされている
晴佐久神父様とご家族へ
曇天の雲間から、
陽差しがさしこんできました。
神々しく静謐なときを
ともに過ごさせていただきました。



そのあと、 
カトリック多摩教会ゆかりの方々の
墓参をしました。
神父様は、一か所ずつ丁寧に、
聖水をふりかけ
それぞれに特別に祈りの言葉をささげられて、
ともに祈りました。
最後に、晴佐久神父様の
ご両親の眠る墓地でも
みなでお祈りをさせていただきました。





お昼はあきる野教会のホールで
お弁当を頂戴し、みなで歓談した後、
3時半ちょうどに
カトリック多摩教会に戻りました。
初めての方とお話しし
さまざまな交わりのひとときを
持つことができました。




神に感謝!


Elizabeth♪
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現状維持でいいんですか?
2015 / 11 / 05 ( Thu ) 12:00:23
10月30日(金曜日)、
晴佐久神父様はこうおっしゃいました。






『この現状で幸せだと思っている人たちが
教会にはいっぱいいる。
でも、そのままでいいんですか?


かたや、自分なんて救われない。
苦しみの中で、どうしていいかわからない。
その人たちには、現状維持でいいのか、
なんて話じゃないですよね。


現状維持してる人たちには
イエス様はけっこうキビシイこと言いますよ。


自分なんか救われないと思ってる人たちには、
「それでも救われる。
いや、あなたたちこそ神様は心にかけてくださる。
あなたたちはホントに幸いなんだ。」
こう言ってますよ。


誰に向かって話してるのかってことですよね。
教会は、だんだん現状維持になって
見知らぬ人は通り過ぎて行っちゃう。


イエスは常にそこにとどまらないで
一匹の羊を探して出て行っちゃう。


自分がその一匹の羊だって気付かない限り、
ホントは救われないんです。
自分は99匹のほうだと思ったら、
その人の問題はそこにある。


全てが一匹の羊ですよ。
多くの人は自分が99匹のほうだと思い込んでる。
イエスの周りに集まったこの人たちは
貧しい人、悲しんでいる人たちなんですよ。


イエスの、周りに常に集まって励まし合ってる
チームになりかけてる。
そういう人たちに向かってイエスは
「あなたたちは幸いだ。」と言う。


それは特別な思想を述べ伝えるのではなく、
この仲間、最高じゃん、と語りかけてるだけなんですよ。


辛い体験ってのは、
そのまま神の恩寵の内にある。
これがあればあるほど
神様の愛が見えてくる。


幸せに暮らしている人たちの
犠牲になっちゃってるような人達には
救いの言葉が必要だし、
あなたたちは幸いって言葉を聞いた時に、

「そうか、試練があったからイエスに出逢えた。
この仲間たちにも会えた。
あれ?こっちのほうがトクかも。」って思えてくる。


キリスト教は、欲深い、
最高のものを求める宗教なんです。
キリスト者たるものはですね、
そういう意味ではもっともっといいものを
求めていいんじゃないですか。』





速報でアップしたように、
この日は神父様のお誕生会をしましたが、
今年はケーキはダブルで!!

そしてきっと、日本で今、
一番忙しい神父様と我が多摩教会では、
クリスマスのさまざまなイベントの準備が
かつてない規模で始まっています。

現状維持にならないように。
もっと今、悲しんでいるあなたに
福音が届くように。


とりあえず今、かかりんは
12月23日の「祈りと歌の夕べ」
の合唱の練習と
25日のここクリの実行委員会と
27日に若葉台のホールで行われる
晴佐久神父様 作・演出の
ミュージカルの練習で
ほぼすべてのプライベートな時間を
教会で過ごしています。


10月31日の土曜日は
「いのちと死 ともに祈る会」
というのがあって
プロテスタントの
永山教会の牧師先生を始め、
いろいろな方との交流があり。
11月1日の日曜なんて、
劇の練習が終わって教会を出たのは
夜の8時でした・・・。
これを書いている3日の祝日も
歌の練習でした。
なんか教会に勤務してるOLのようです。






今年、あなたに
すばらしいクリスマスを届けるために。
私たちは全力でがんばっています。

あなたにこの気持ちが届きますように。





かかりん
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諸聖人の祭日
2015 / 11 / 04 ( Wed ) 16:00:18
2015年10月30日(金)
11月1日は、全ての聖人と殉教者を記念する
“諸聖人の日”。
古くは「万聖節」(ばんせいせつ)と
呼ばれていました。

入門講座での、晴佐久神父のお話から…








「すべての死者は聖人。
神様が、すべてきよめて下さるので。
すべての悪は、“未善”。
善に向かうプロセス。」



「マタイ福音書では、“山の上”は重要です。
山の上に上るのは、いっそう天を見るため。
その象徴です。
山の上は、天の栄光が見えるところ。
マタイ福音書は、山の上で終わります。
民衆への第1声は、山上の垂訓(5章)。
山上でイエス様は変容します(17章)。」



「カトリックでは、死は
、けがれや忌まわしいものではなく
死者=聖人たちは、私たちより格上です。
きら星のごとき、聖人たち、殉教者たちが、
山の頂で賛美して、
“上をみようぜ!”と、
私たちを励ましてくれています。

“殉教者、おめでとうございます。
あやかりたいです!“という気持ちです。
カトリックでは、葬儀ミサも明るい。
私の葬儀ミサでも、ぜひ
“おめでとうございます!”と、
言っていただきたい。
究極の殉教者であるイエスが
“死ではない、誕生なんだ”、
と開いてくれました。」



「信仰宣言の“聖徒の交わり”は、
かつては“諸聖人の通功”と言いました。
諸聖人の深い信仰を思い起こして、
励まされます。
カトリックは、
すべてのミサが、死者のためのミサ。
死者の祈りに支えられていることに、
心を開きます。

祈りによる交わり。
私たちのために祈ってくれている聖人。
そのトップは聖母マリア。
教会の母マリアが、
私たちのために祈ってくれています。」



「山の上で語られるのは、神の言葉。
それが“山上の垂訓”。
“天には大きな報いがある”から、
諸聖人の日に読まれます。

貧しいからこそ
神を必死に呼び求め、より頼む。
そして、心に真の平和が与えられる。
何かあったからこそ、もっと、“幸い”。

試練を越えて、“幸い”が来る。」



「つらい体験、試練があればあるほど、
神様の愛が見えてくる。
神の恩寵のうちにある。
幸せな人たちは、イエスに出会えなかった。

キリスト者は、この世のものでは満足しない。
永遠のものを求める。
最高のものを求めます。
天国への山登りは、
仲間と一緒の歩みです。」



「マタイ福音書のイエスの第1声は、
『幸いだ!』 という宣言。
祝福の言葉があふれてきて、そこは、
神の国の目に見えるしるしのような
場になった。」



「諸聖人の祈りに支えられて、
私たちは生きている。
近しい死者が、天でとりなしてくれるのは、
すごく有難いこと。
あなたは、もう、救われている。
だいじょうぶ。何の心配はない。

怖れがあると、攻撃的になるし、
巻き込まれもする。
“諸聖人が働いてくれているから大丈夫”
という、安心感を持ってください。」



「“死は、生のはじまりなんだ”
という大逆転。
“天には大いなる報いがある”。
永遠なるものに向かっていくときに、
永遠でないものの意味が分かります。」







11月1日のミサの答唱詩編は、典礼聖歌158番でした。
“門よ、とびらを開け、永遠の戸よ、あがれ。
栄光の王が入る。“(詩編24編)
ミサは、門が開く時。
今日も、ミサで御聖体を通して主と一致して
諸聖人とのつながりに、思いをはせました。




神に感謝!

Elizabeth♪

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あなたはもう救われている
2015 / 11 / 03 ( Tue ) 17:30:40
2015年10月16日(金)
入門講座での晴佐久神父様のお話から…






「教会は、神の愛を可視化する現場。
50年前の第2バチカン公会議は、
奇跡の会議だったと言われています。

この公会議で、カトリックは
“教会は、目にみえる神の愛のしるし”という
自己理解を打ち出した。
それまで、内向きだった教会は、
“ともし火をともして枡の下に置く者はいない。
燭台の上に置く”(マタイ5章15節)
という聖書のことばどおりに、
ともし火をかざしました。」



「私たちキリスト者には、
“神の愛を示す”という使命がある。
来週、
幼児洗礼を受ける幼児たちにも、
その使命はある。

一番身近な目の前の子に、
“あなたは愛されている”
“あなたは救われている”
と、伝えるのが、教育の本質です。

今の教育では、
まだだめだ。
こんな自分じゃだめだ。
と言われ続けてしまうけれど、
せっかくカトリックに関わっているんだったら、
“神は、すべての人の神であり、
教会は、神の愛の目に見えるしるし。“
“あなたは、何もできなくても
、救われている。愛されている。“
と、伝えましょう。
それが、いちばん大事です。」



「“私たちは尊く、聖なる存在で、
神の愛を伝える存在。
あらゆる試練は、生みの苦しみ。
あなたは、もう、救われている。
あなたは愛されている存在だ。“
と、目の前の子に伝えるのが、福音宣教です。」



「親が100回怒っても、神は、
101回目にもゆるします。
ダビデは“不法が許され、
罪を覆い隠された人々は、幸いである。
主から罪があるとみなされない人は
幸いである。”と言った。(ロマ書4章7-8節)

ダビデは罪を犯しましたが、
預言者にさとされて、2度回心しました。
ダビデは、“神は、この私をゆるした”と信じた。
一方、
アダムの罪は、
“自分は罪びとだ。
許されない”と思ったこと。

“私はゆるされない”と
おびえることが、罪です。」




「“あなたはもう救われている”と宣言する。
それ以外は、あまり、
余計なことは言わない方がいい。
恋人同士は、にっこり笑って、
微笑むだけでいい。
お天気の話ぐらいでいいですね。
信仰の本質は、神様のまなざしを受け止めて
、ほほえみを返すぐらいでいい。」



「“神は、私を、ゆるしている”
“それでも、神は、愛している”
“間違いなく私を救う”
というところに、何度でも、
繰り返し、立ち返ってください。

からみつく罪を振り払い、
救いの安心に立ち返ってください。」



「キリスト教は、啓示宗教。
イエス・キリストのことばこそが、その啓示。
“神様は、絶対にあなたを守ってくれるのよ。
救ってくれるのよ。“
と、子どもたちには、繰り返し教えて下さいね。
最大の宣教は、わが子へ。」





10月25日、カトリック多摩教会では
3名の幼児[赤ちゃん]と
一組の母娘が洗礼を受けました。
目の前の人にも、自分にも、
「だいじょうぶ。ゆるされている。」と
微笑みで、伝えたい…。



神に感謝!

Elizabeth♪

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